■本物の価値を生み出す「価格0ドル」のシャネル・スタイル
子どもが図書館で借りてきた本に、私が夢中になってしまいました。ファッションブランド、シャネルの伝記です。第二次世界大戦後の1950年代、ファッション界を席巻した洋服のブランド、シャネル。
シャネルの評価が高まると同時に粗悪なコピー商品も市場に出回るようになります。
しかし社長ガブリエル・ココ・シャネル本人は気にしませんでした。
ある日、顧客の娘がシャネルの前に着てきたのはシャネルスーツをそっくり真似たコピー商品だった。
「悪くないわね」シャネルはしげしげと眺めまわし、楽しげな口ぶりで「袖のたれ具合を別にすれば」と付け加えた。
娘のジャケットを脱がすとその場で縫製を解き、自分の満足がいくように袖を付け直し始める。
そしてきちんと仕上げられた服を娘の手に戻す。
読みながら何度もうなづいていました。
時代や性差を越えて女性を自由にし、美しく見せることがエレガンスであり、人生、暮らし、仕事を妨げない自由な動きのなかにあるものをシャネルは「スタイル」と呼んでいます。
たとえコピー商品でもシャネルが針と糸で手を加えれば、そこにシャネル・スタイルが生まれます。価格は0ドル。
当院に「他の歯科医院で作られた入れ歯でも持ち込んで大丈夫ですか?」というお問い合せの声がよく届きます。
もちろん大丈夫です。
・不調なインプラント
・チタン義歯
・セラミックブリッジも受け付けます。
・極薄の歯科専用安定剤(ティッシュコンディショナー)を入れ歯に貼る
・咬み合わせをミクロン単位で調整する
・ニッパーとプライヤーで入れ歯のバネを作製、修理する
などの方法で、半日で使えるように仕立て直します。
針と糸で服を縫製するように、他院で作られた入れ歯でも、大掛かりな治療ではなく保険適応の材料で修理して快適に使えるようにできます。
負担の少ない最小限の材料と機器で口の中の憂いを取り除き、人生、暮らし、仕事を妨げない自由を取り戻してもらう。といってもシャネルのように「費用は0ドル」というわけにはいきませんが、入れ歯の修理なら保険治療で数千円でできます。
最近は他院で施術されたインプラントが壊れたり抜けたりして調子が悪い、という例が散見されます。私はインプラントを施術しませんが、患者さんの口にすでに入っていたら、周囲炎などで揺れていなければ、入れ歯のバネを引っかける鈎歯として積極的に利用して、不良なインプラントでも役立てることができます。
シャネルは「あたしは恥じらいを持ったエレガンスを、本当の女たちのために戦い、守る」と常々言っていました。
それはコピー商品を法律で取り締まることではなく、品質を堅持し続けることにありました。シャネルの守ったスタイルとは高価な宝石でも希少な布地でもありません。ファッションに妥協しない厳しさです。最高峰の生地を使っても袖のたれ具合ひとつでニセ物になってしまう。コレクション発表前のシャネルはハサミと針と糸を振りかざしてスタッフに指示を飛ばす。最後に物を言うのはシャネルの厳しい目と基本の道具。そこから産み出された服こそがシャネル・スタイルなのです。
痛みのない快適な食事ができる。楽しい会話ができる。
そのために必要なのは高価な機器ではありません。
チタンやセラミックなど最新鋭の材料を使っているから良い治療だとはなりません。
高価な機器を使うから魔法のように治るわけでもない。
入れ歯が数ミクロン厚かったら、咬み合わせが数ミクロン高かったら、虫歯を数ミクロン削り残したら治療は失敗です。
当院にある新しい機材は、必要とあれば積極的に使います。ですが最後はシンプルな器具とそれを使いこなす指先、そして歯科医師の妥協しない厳しい眼差しで目に見えない部分まで追究する姿勢を崩すことはありません。それが「いとう歯科スタイル」なのです。
顧客にはダイヤモンドをふんだんに用いた服を法外な価格で仕立てながら、シャネル本人はイミテーション(にせもの)のダイヤを身に付けて顧客を見下ろしていたという。まだまだ私など海千山千のシャネルの足元にも及びませんが、シャネル・スタイルを追いつき追いこす日を思い描きながら日々診療に励んでいます。
伝記を読み、感銘を受けた私はシャネル銀座ビルへ行ってみました。
店の前に立った私はプレッシャーを感じて入るのに勇気がいりました。ここがシャネルか。ためらいつつ足を踏み入れると、予想とは違う雰囲気に戸惑いました。残念ながら今は亡きシャネルがコピー商品にハサミを入れた、あの伝説のシャネル・スタイルは、もうここでは永遠に手に入らないと悟って店を後にした……。
とカッコつけてみたいけど、0がいくつ付いているのかわからない値札を見て尻尾を巻いて逃げ出した、というのが真相です。
参考文献:20世紀ファッションの創造者 ココ・シャネル ちくま評伝シリーズ