高額な自費治療を行なわず、いとう歯科医院が保険治療を選んだ理由
私が歯科医師になって5年ほど経ったころのことです。都心でも一等地のオフィス街にある歯科医院に勤めていた当時はまだまだ修行の日々で診療と勉強に忙しく過ごしていました。新しい治療法とも接する機会が多く刺激的でした。
チタンインプラントとセラミックを用いた芸術のような歯並び。レーザーで歯槽膿漏を一瞬で治すのは魔法のよう。外国に留学経験のある院長先生が難しい理論を語るのを一生懸命聴いていました。彼の話についていくために今までにも増して専門書を読んだり調べたりするようにしていたものでした。
転機
一方で、町の開業医である父との会話は少なくなりました。特に歯科の話は一切しません。都心で最新の治療法を勉強していれば、父から教わることなど全くない。父に対してそんな印象を持っていました。なんだか思い上がっていたのかも知れません。
そんな私に転機が訪れたのは近くの大企業で働く重役のAさんが患者でいらした時です。食事をすると保険の入れ歯がすぐに外れてしまうということでした。
今の私だったら簡単に治療できたと思います。でも当時の私は入れ歯を目の前にしてパニックを起こしそうでした。なぜなら入れ歯の患者さんを治療するのが初めてだったからです。大学時代は指導してくださる先生と一緒に入れ歯の治療をしたことはありましたが、指導の先生が診断して治療方針を決めて、私は指示に従っているだけでした。都心の一等地では、ビジネスマンやOLさんなど若い患者さんがほとんどで、入れ歯の患者さんは極端に少なかったのです。
限界
学生のころの知識をかき集めて工夫したところ、もう少しでうまく治せそうではありました。先輩の先生や院長先生に、どうしようかと聞いてみましたところ
「これはインプラントがいいね」
「高額なセラミックで全部作り直せば上手くいくよ」
「歯ぐきが傷んでいるから、まず歯槽膿漏の手術が必要だな」
みなさん丁寧に教えてくれます。ただ何というか、欲しい答えではありません。胸のつかえが取れない感じなのです。まず保険治療で入れ歯の調整が先だろう、と思ったからです。
それから半年の間、出来る治療を全て施してみました。色々と工夫したおかげで多少は食事も出来るようになりました。とにかく少しでも改善させたいという気持ちだけは伝わっているみたいでAさんも通ってくださいました。
最終手段
しかし当時の私の技術に限界が来ていたのでしょう。もうこれ以上改良する点が見つからない。何をやっても良くならないのです。他の先生方も協力して考えてくださるものの、みな首をひねるばかり…。
このままあきらめるしかないのか…。でもどうしても納得できず、Aさんの淋しそうな顔が浮かんできました。家に帰っても入れ歯のことばかり考えていた私は、ついに今まで封印していた最終手段を使う決心をしました。
「父に聞く」
ワラをもつかむ思いでした。模型を見せて治療内容を全て隠さず父に話しました。みんなで取り組んだが万策尽き果てたことも。父は私をじっと見てポツリと言いました。
「難しい症例をここまでよく治したね」
生まれて初めて自分の努力を認めてくれた父に対して、私は涙が出そうになりました。そして父のアドバイスは簡単なものでした。それだけで解決するのか?それでいいのか?
聞いた私は耳を疑いました。本当にこんなことで改善するのか。大学時代から今までを通じて見たことも聞いたこともない調整方法です。専門書を調べたときも全く記載されていませんでした。それは…
「入れ歯にプラスチックを盛り上げる」
それだけだった。「えっ!それだけでいいの?」
疑っている私に父は
「大丈夫。良くなるよ」そう言って力強くうなずきました。
次の日、さっそく入れ歯にプラスチックを盛り上げて新たなかみ合わせを作ってみました。後から調べて分かったのですが、保険治療では「咬合挙上(こうごうきょじょう)」というテクニックでした。
「あっ! これは今までとは段違いに良いね」
Aさんが初めて見せる本当に満足そうな笑顔。やはり父の言う通りです。かみ合わせが合っていないのが入れ歯が外れる原因でした。父は模型を見ただけで今回の不調の原因と治療法を見抜いていたようです。
保険治療でも魔法のように良く治す。喜んで帰られたAさんでしたが次の日また来院しました。
「何か問題あったかな…」
恐る恐る、表面上は平静を装って聞いてみると患者さんは目を輝かせて
「食事もバッチリだよ。あとね、ずーっと夜寝ているときに歯ぎしりするのに悩んでいたのが、きれいサッパリ治ったんだよ。朝起きるとアゴがラクで。先生は魔法使いだね」
と笑顔で答えてくださいました。
やっぱり父はすごい!お金をかけた自費治療でなく、保険治療でも魔法のように良く治す。私が入れ歯専門の保険治療にこだわるようになったのは、このことが原体験となっています。それから入れ歯のことはどんどん父に聞くようになりました。
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