
「夫が物を食べなくなってしまって…」
奥さまに手を引かれてながら杖にもすがるようにして入っていらしたのは80代男性のTさん。
治療室の扉から治療台まで5メートルですが杖にもつれて転びそうです。
心配で私も一緒に手をお貸しして治療イスに座っていただきました。
食べられない理由は入れ歯です。
前歯だけの入れ歯を入れていたのですが、奥歯も失っていて口の中にはもう一本も歯が残っていない状態でした。
歯があった時代の名残りで金属バネ(クラスプ)が中空に浮いています。
これではクラスプなど、かえってジャマなだけ。
当然ですが入れ歯は口を動かすと簡単にアゴから浮き上がってしまいます。
食事など出来るはずがありません。
とは言うものの入れ歯を入れて噛んでいただくとカチッと一箇所に定まります。
前歯だけでなく残っている奥歯のクラスプでも噛めるからです。
これは大助かり。
入れ歯治療の難しい症例として、噛んでもおうとしても下アゴがフガフガと動いてしまって噛む位置が定まらないことが挙げられます。
アゴの位置が定まらない入れ歯だと
入れ歯を着けると痛い
食事できない
姿勢、歩行に影響する可能性
顎関節が悪化する
など様々なことが起こります。
アゴの位置が定まらないから入れ歯が難しい。
逆に入れ歯が難しいからアゴの位置が定まらない。
どちらにしても難症例になります。
しかし今回は咬み合わせが一箇所に定まっています。
形はともかく「良い入れ歯」「良いアゴ」なわけです。
これを使わない手はありません。
ちなみにせっかく「良い入れ歯」があるのに完全に無視して新しく入れ歯を作り始める歯医者がいたりしますが大変リスキーです。
なんの手がかりもなくゼロから総入れ歯を作るのは、咬み合わせを定めるのが難しいからです。
仮に新しく入れ歯を作るとして、使えるようにするには一つ鉄則があります。

ゆるい入れ歯には保険治療で歯科専用の入れ歯安定剤ティッシュコンディショナーを貼ると安定します
それは
「前に使っていた入れ歯と咬み合わせを変えないこと」
です。
前に使っていた入れ歯と咬み合わせが変わってしまうと、新しい入れ歯はほぼ使えない入れ歯になります。
ゼロから上下の咬み合わせの記録をとる方法はいくつもありますが、ほぼズレます。
それでは現在は歯が一本もない患者さんの下アゴの位置をどうやって決めるかというと「ゴシックアーチ」という機械があります。
機械…とはいっても下アゴの仮の入れ歯に金属の板を置いてマジックで色を塗っておく。
上アゴは仮の入れ歯に針を付けてアゴを動かすと、針がマジックを消すので動きが分かるという。
1920年くらいから行なわれている方法から進歩していません。
たとえば
テッテレー♪
「咬み合わせ測定器ー!」
みたいなハイテクマシンがあって、現在使っている入れ歯の咬み合わせを記録しておく。
新しい咬み合わせを記録する時に正しい咬み合わせになると「ピーピー」と音で知らせてくれる。
そんな便利な物があればいいのですが残念ながら、そこまで便利になるのはたぶん22世紀くらいの話だと思います。
ちなみに歯科でも、入れ歯ではない分野ではドラえもんの道具みたいな便利な機械があります。
たとえばムシ歯が大きくなって歯の根の治療をするとします。
歯の根の内部は目で見ることができません。
そんな時に活躍するのが「根管長測定器」。
リーマーという歯の根を掘る針のような器具に測定器を当てると、見えない歯の根の長さを測ることができます。
歯の根の先端に近づくとピッピッピッと鳴って、先端に到達するとピーピーピーと音が変わって分かるというもの。
これは数値的な根拠があるから機械が作れるわけです。
いっぽう入れ歯の上下の咬み合わせは数値化できるものがありません。
だから音で知らせてくれる測定器は作れないのです。
そのようなことで咬み合わせをゼロから新しく作ろうとすると結局は経験とか勘とかに頼らざるを得ないことになります。
歯科のセミナーや論文などでよく新しく入れ歯を作った症例を見かけます。
もちろん公にするくらいなので成功事例ばかりなのですが、マネして複雑な器械を使って保険治療外の高額な入れ歯など作ってしまうと思わぬトラブルに巻きこまれる可能性があります。
咬み合わせとは非常に繊細な場合があります。
元の入れ歯と咬み合わせが1ミリ変わっただけで使えなくなることは起こりがちです。
だから新しく作るなどのことはしない方が賢明です。
そこで行なうのが入れ歯の修理です。
下の前歯は健在です。
ひだり側の奥歯に相当する部分にクラスプが残っています。
だからまずクラスプに白い歯の色の歯科用プラスチックを巻き付かせることで歯の形を回復させました。
最初の修理で前歯とひだり側奥歯で噛めるように歯の列を回復することができました。
続けてみぎ側の奥歯です。
こちらは元々は4本分が金属のかぶせものでつながったブリッジが入っていたのですが歯周病で4本まとめて抜けてしまったそうです。
そのような経緯から、こちらには入れ歯の構造物は一切ありません。
だからみぎの奥歯は、もう少し手をかけた修理をしました。
下アゴの型をとって石こう模型を作ります。
模型と入れ歯を合わせて、みぎ奥にピンク色のボディから作って元の入れ歯とつなげる修理をしました。
ただしプラスチックでつなぐだけでは強度がありません。
噛む力で簡単に折れてしまいます。
そこで補強の金属線(金属線)を埋めこむことで強度を増しています。
みぎ側の咬み合わせを作るのは簡単でした。
なぜなら前歯とひだり奥歯で咬み合わせが既に定まっているからです。
こうして両側奥歯でしっかりした咬み合わせが復活したTさん。
「あ、これならよく噛めますね」
と笑顔で答えてくださいました。
後日に点検で来院されたTさんは杖をつきながらですがご自分だけで、しっかりとした足どりで診療室に入られました。
やはり食事もとれるようになったとのことで頬もふっくらとしていました。
もちろん入れ歯だけの力ではなくリハビリなど、ご本人の努力と奥さまの介助のおかげです。
ただ入れ歯修理が少しでもその力になれたとしたら私もとてもうれしいです。
今回行なった入れ歯を増歯修理する治療は5回の通院。費用は保険治療3割負担で総額約8,000円でした(費用は症状や治療部位などによって変わります)。

保険治療で入れ歯調整できます
修理を繰り返した入れ歯ですから壊れやすいことはあります。
あれから1年経っています。
クラスプと補強線の金属が埋まっている効果でしょうか。
割れたりすることはなく快適に使い続けています。
もっともアゴは生きている体なので変化します。
とくに今まで使っていなかった奥歯の部分に入れ歯が乗っかって力が加わる影響で、アゴ骨やピンク色の歯肉(粘膜面)がが形が変わりやすいです。
数か月に一度ほど変化したアゴと入れ歯を合わせるために、歯科専用の入れ歯安定材ティッシュコンディショナーを薄く貼ってピッタリさせる治療を続けています。
これは、入れ歯が歯グキと接するピンク色の部分(床)全体に、粉と液を混ぜてペースト状になった材料を薄く貼って口の中に入れます。
すると入れ歯になじんで歯グキとピッタリ合います。
目で見て分かるようなスキマなどなくても、入れ歯が不適合になると歯グキを圧迫して歪みが出てきます。
ティッシュコンディショナーはその歯グキの歪みを取り除くことができます。
薄い膜みたいな厚さでも効果は大きいです。
「あっ、これはピッタリになりましたね!」
患者さんにもすぐに変化がわかります。
現在は何回かこのティッシュコンディショナーを貼り替えて様子を見ているところです。
今のところ新しく入れ歯を作る必要もなく修理した入れ歯を使えるのは、高齢で通院も大変、前に説明したような新しい入れ歯を作るリスクもありません。
治療後はいつも奥さまと一緒に笑顔で帰られます。

