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・なぜ象は家畜にならなかったのか。なぜ歯科の自費治療は信用を失ってしまったのか

杉並区西荻窪で入れ歯治療を数多く手がける
いとう歯科医院の伊藤高史です。

「うまくいっている歯科治療はどれも似たものだが、うまくいっていない歯科治療はいずれもそれぞれにうまくいっていない理由がある」

自分で読んでもうっとりするようなカッコいい文章ですが、もちろん語彙力と読解力に難がある私のオリジナル文章ではありません。
文豪トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の有名な書き出しの部分を少し変えたものです。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(中村融訳、岩波文庫)

結婚生活が幸福であるためには、異性として互いに惹かれていること、運命を味方につけること、その場の勢い、金銭感覚、食事の好み、子どもの教育方針、収入、親族との関係など。

多くの事柄と条件において鍋とフタのようにピタリと一致していることが必要。
逆にどれかひとつでも欠けると、とたんに瓦解する。結婚生活とは綱渡りのようなものです。

うーん確かに。
もっとも私自身は今のところ妻が人格者なおかげで幸福に過ごしています。

それはさておいて、このことが結婚生活以外にも当てはまる話を「銃・病原菌・鉄」上(ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社文庫)で読みました。

なぜヨーロッパ人がアメリカ大陸、アフリカ大陸、オセアニア大陸の先住民を駆逐し富を築くことができたのか、逆になぜアフリカ人がヨーロッパを占領することにならなかったのか、鋭く精緻な分析で読み解くスリリングな本です。

たくさん理由がある中で

「ヨーロッパを含むユーラシア大陸では多数の大型動物を家畜化するのに成功したから」

と述べる部分でページをめくる手が止まりました。

家畜というとたくさんいそうなものですが実は世界中に14種類しかいません。
牛、羊、ヤギ、豚、馬、ラクダ、ラマ、アルパカ、ロバ、トナカイ、水牛、ヤク、バリ牛(東南アジア)、ガヤル(インド、ビルマの牛)。

こういった動物は多くの条件、事柄がピタリとうまくいったおかげで家畜化に成功しました。
家畜ができたことで食料生産が増えて人も増えて豊かになって、騎馬兵のような強力な武器もできて新しくアメリカ大陸やアフリカ大陸に進出できました。

家畜化できそうな哺乳類は、とくにアフリカなどは昔のテレビ番組「野生の王国」のように大型動物の宝庫に見えます。
しかしアフリカ原産の大型動物で家畜化できたのはゼロです。
カバ、サイ、ライオン、シマウマなど家畜になっていません。

書によると家畜化の候補となった大型動物は72種類いたそうです。

ユーラシア大陸ではそのうちの13種類を家畜化できました。
これは多いように見えるものの家畜化率としては18%に過ぎません。

「家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである」

銃・病原菌・鉄の書で、アンナ・カレーニナの文章を借りてそう述べられていました。
私が歯科治療について書いたのはマネのマネです。

それではなぜアフリカ動物は家畜化できなかったのか。
それぞれに理由が挙げられていました。

・エサがあまりに大量に必要
・成長が遅すぎる
・繁殖させにくい
・気性が荒すぎる
・逆に神経質すぎる
・集団生活できないなど

つまり家畜化がうまくいった理由とは、その動物を人間に都合の良い、数少ない型にうまく当てはめることができたからです。
家畜化がうまくいかなかった理由はアフリカの野生動物を思い浮かべれば納得いきます。

庭でライオンを飼っている人はいません。
競馬でシマウマは走っていません。
カバの乳を飲んだことはありません。

このような話を読んで私がふと思い浮かべたのが、高額で大がかりな歯科の自費治療でした。

保険治療の入れ歯なら総額1万円ほど。
装置も小さく簡単で、歯科医師が自分で作ることも可能なくらいです。

それが自費治療になると、インプラントをはじめ、金属床入れ歯、インプラント4本で全顎を覆うオールオンフォー、セラミック冠、ジルコニア、特殊なアタッチメント、シリコン入れ歯など。
装着するまで年単位で時間がかかり金額が百万円を越えることも珍しくありません。

大がかりで高額な治療の候補はもっとたくさんあります。
私は自費治療をやらないのでこの程度しか書けません。
自費治療を数多く手がける歯科医師なら治療法を72種類くらいすぐに思いつくのではないでしょうか。

しかし歯科の大がかりな自費治療はアフリカの大型哺乳類と同様に、やはり一筋縄ではいかないものです。

トラブル、失敗を数多く見てきました。
なぜこの症例は失敗しているのか。
理由ならいくらでも挙げられます。

全身状態の不良
喫煙
咬み合わせの不正
口腔清掃の不良
顎の骨の弱さ
歯ぎしり食いしばり
ストレス
歯科医の説明不足
治療方針の間違い
歯科医の技術不足
治療部位への力の過重負担
口の乾燥が著しい
全身的疾患との兼ね合い
診断が間違っていた
など。

保険治療のような小さな術式なら必要な条件も少なく、上記のような多少の不具合にも迅速に柔軟に対応できます。
やはり大がかりな治療を行うなら、あらゆる条件、事柄がピタリとうまくいく必要があります。

しかし何かひとつが欠けたらガタガタッと崩壊してしまう。
そんな例は枚挙にいとまがありません。

とくに大型哺乳類の代表格ゾウを飼い慣らして戦争の戦力にしようとして、歯科の自費治療のように失敗した話を読みました。

「アド・アストラ」(カガノミハチ著、集英社)
紀元前の地中海を舞台としたイタリアのローマ帝国とアフリカの古代カルタゴ国(現在のチュニジアあたり)の戦争を描いた漫画です。

カルタゴは主戦力のゾウを率いてローマに攻め入ります。
有名な「ハンニバル将軍のアルプス越え」です。

はじめは巨体のゾウに押されていたローマ軍でしたが、脇や耳など柔らかい弱点を槍で突くことでゾウをパニック状態にして攻略。
最後はカルタゴを占領しました。
このようにゾウには致命的な欠点、弱点があるためローマ帝国はゾウを戦力にすることはありませんでした。

逆にローマの戦力になったのは、スピードある馬を自由自在に駆り小型の投げ槍で相手戦力を削るヌミディア騎兵と、盾で防御しつつ短い剣グラディウスで接近戦を強化した軽装歩兵です。

小型で小回りの利く新しい武器と組織力を用いて、まさに小よく大を制す発想でカルタゴのゾウ軍団を倒したローマ。
私は読みながら喝采を送っていました。

家畜化にしても小型の動物なら簡単です。
イヌ、ネコ、インコ、カメ、金魚などエサも少なくすみ、場所もとらない、性格も温厚です。
もちろんペットとして世界中に広まっています。

わが家で20年以上飼っているクサガメのタロウ君は最近お手をするようになりました。
実はメスだったらしいと後からわかって焦っているところですが、小さい動物なら私ひとりの力でも飼える実例です。

歯科の保険治療における欠点としてよく言われるのが、材料や治療法に選択の余地が少ないことです。
しかしそれは必ずしも悪いことではありません。
なぜなら保険治療に採用された治療法は、厚生労働省や大学病院などでケタ違いの数、お金、頭脳、力がかけられて選ばれているからです。

個人が思いつきで編み出した施術など相手にされません。
個人で同じくらい信頼に値するデータを作ることなど不可能だからです。

だから小型で簡単で小回りが利き、組織力に担保された保険治療なら安心して進められるのです。

それにひきかえ歯科の自費治療には数多くの候補があります。
そのうちどのくらいの数が生き残るのでしょうか。

・科学的根拠に乏しいもの
・院長ひとりのカリスマ性だけで突っ走っているもの
・トラブルになったら誰も解決できないもの
・後から修理調整が一切できないもの
・学会で正式に否定されたもの
など。

歴史の重みに耐えられるようには思えないのです。

古代カルタゴではゾウを家畜化、戦力化しようとして失敗しました。
歯科の自費治療もそのようにひとつ消え、ふたつ消え、結局は成功例18%くらいなのかも知れません。

「アド・アストラ」の作者はあとがきに書いています。

「この物語を描いている最中、カルタゴやローマや周辺国を現代の日本や国際情勢に当てはめて考えることが多々ありました。二千年以上経た今も人間は同じようなことを繰り返しているものなんですね」

歯科の世界も同じようなことを繰り返しているものなんですね。

これからも歯科治療と同時に歴史もさらに勉強して、患者さんにとって最良の選択をしていきます。

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