私の祖父について
おかげさまで、いとう歯科医院は地元松庵で80年以上、三代に渡って保険で良い入れ歯治療を心がけてきました。
祖父の作った入れ歯を今でも調整しながら使っている患者さんもいます。
自分はまだまだ若輩者ですが、それでも、あなたが入れている入れ歯や口の中が20年後や30年後にどうなるか、ある程度の予測がつくようになります。
それを基に、壊れやすい箇所とか残っている歯が将来どうなるかとか、壊れやすく修理が必要になることを見越した治療の提案、入れ歯の作製ができます。
また歯科医師の役割とは、入れ歯やかぶせ物などの「物」を作るだけではありません。
舌、咀嚼、咬み合わせ、飲み込み、構音機能、口腔乾燥の口腔機能検査。
その検査に基づいたリハビリテーション、生活指導を通じて口腔機能を維持して、患者さんが年を重ねても入れ歯も生涯現役で使えて、より良い生活を送れることを考えた治療を心がけています。
そのような口腔機能検査、治療、生活指導も保険治療でできます。
開業100年を越えても変わらずに保険で良い入れ歯治療を続けていきたいと思っています。
祖父が昭和初期に保険治療で作ったゴム床の義歯を一つ保存しています。
これは歯科用プラスチックが存在しなかった時代の入れ歯です。
改めて手にとってみると、歯科治療の歴史の大きさ、長さを感じます。
ゴム床は、柔らかいゴムで形を作り、高温高圧で固めて作りました。
祖父は優れた歯科医師であるとともに趣味人でもありました。
産経新聞と東京新聞に祖父の記事が掲載され、「歌人、歯科医」と紹介されています。
そのような余裕ある人生に憧れます。
祖父と二・二六事件との関わり
医科芸術 平成元年8月号に掲載されました。
「兵に告ぐ」と私
伊藤篁秋(杉並区 歯科)
二・二六事件。その日の朝は珍しい大雪で、私は庭の景色など眺めてのんびりしていた。
ちょうど広島県から妹が夜行で上京して、九時頃までには我家へ着くことになっていた。
ところが、ラジオであの大事件の勃発を知って仰天した。戒厳令は布かれるし、いつ砲火を交えて戦になるか知れないし、これでは妹が東京駅に着いても、果たして杉並の我家まで辿りつけるかどうか、大変心配した。でも幸い、十二時近くに来れたので一安心した。
それはそれとして、この事件の、その後のことは皆様もご存知のように、あの有名な「兵に告ぐ」の降伏勧告文が功を奏して、反乱兵たちは間もなく鎮圧され、万事平常にたち返った。
しかし、この事件に関連してわが家では、大きな話題がもち上がった。それは「兵に告ぐ」の文章を作られたお方が、普段患者で来院しておられた大久保弘一小佐である事がわかったからである。大久保小佐は上官の戒厳司令官・香椎中将の命令であの文を草されたのである。
その後間もなく、当の大久保小佐が来院されて申されるには、「この頃人から度々書を頼まれるが印を持たぬので困る、刻ってもらえまいか」とのこと。私が普段、篆刻や工芸を趣味にしているのをご存知だったからである。
私は早速刻ってさし上げた。関防に捺す印には「天地人」と刻り、落款印は白文で大久保弘一印、朱文の方は号で白光臺主と刻った。
数日後、そのお礼にと持参されたのが、何と、思いもかけぬ「兵に告ぐ」の書であった。
大判に画仙紙一杯に筆痕鮮やかに、かの全文が書かれていた。流麗さと剛健さが美事に調和した、洵(まこと)に魅力溢れる書風だったので、私は感嘆すると同時に、欣喜雀躍した。もちろんそこには私の刻った印が三顆、ちゃんと捺してあった。
私は早速経師屋に頼んで、第一級の表装をしてもらった。それから時は流れて、今から十年くらい前、大久保家の嗣子・良男氏が来院された時、ふと私は聞いてみた。「お宅にはお父様の書かれた書幅がたくさんあるのでしょう」と。ところがご返事は「何一つありません」とのことであった。
あれだけの書をかかれたお方が、なぜ家に残されなかったかと、不思議に思いながらも、私の心は或る決断を迫られることになった。
わが秘蔵の「兵に告ぐ」の一幅をこのまま持っていてよいものか、わが家で大切なこの一幅は、大久保家にとっては更に大切な一幅になるのではあるまいか、またこの一幅も懐かしい親元へ帰りたいのではあるまいか、等々思いめぐらしていた折も折、良男氏がちょうど新築された時だったので、そのお祝いとしてこの一幅を進呈することにした。その時にはまだ大久保小佐の奥様はご健在だったので、こと一幅が帰ってきたことを涙を流して喜ばれたとのこと、後日良男氏から承った。
矢張り、あの一幅は納まるべき所に納まったのであって、同時に私の心の中にも美しい宝として残ることになったのである。
因に、大久保小佐は後、昇進されて少将になられた。
(平成元年七月記)
医科芸術 平成元年8月号より「兵に告ぐ」の降伏勧告文を額装したものの写真です。
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祖父の祖父について
実は「保険でできる良い治療」のルーツは私の四代前、祖父の祖父までさかのぼることができます。
四代前の伊藤往来(いとうゆきき)は山口県で漢方医を営んでいました。往来(ゆきき)はある日、行き倒れになっていた身元も分からない外国人を介抱しました。外国人への偏見も強かった時代に自宅に引き取ってかくまうように家で世話をするのは大変なことだったと思います。
治療の甲斐あってすっかり回復した外国人は喜んで往来にある薬の作り方を伝授しました。伝授された薬は、不治の病としてその当時恐れられていた梅毒の特効薬でした。実は外国人は医者だったのです。
次々と患者を治療していった往来はとても喜ばれました。山口県の地元では往来大明神と呼ばれ祠が建ったと聞いています。
祖父高秋は小さいころに往来がこの薬をこねて丸めて作っていた工程の「ゴロゴロゴロゴロ…」という音をよく覚えていると言っていました。
良心に基づいて人を助け、奉仕の心で病を治す。そんな往来(ゆきき)の精神を現代に引継ぎ、患者さんの健康を願い、地元松庵で歯科医院を継続していくことが私の使命だと思っています。
伊藤往来の写真が今でも残っています。祖父 高秋に似た顔です
梅毒と、特効薬「毒丸」について解説している往来手書きの書
毒丸は登録商標を取得しました。
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